にっき

ゲーム記や転載された絵の削除申請まとめ、療養中の記録。

ふぇでぃばに漏れつつあるLTL住民とコミュニケーションをしてこなかったツケ

朝起きて感じる、左のあごの付け根の痛み。これは…ロキソニンだな…。

夜中に何があったんだ…レポートを出して…対策するから…。

寝てる間に噛みしめてた?なんとなく火照りも感じるけど、やっぱり熱はないし、自律神経の乱れとかなのかな。おなかも痛んだり下したりではないけど、あまりちゃんと動いていない気がする…。ストレスばかりはどうしようもないよね。これだけ人類の歴史がある中で、なんでストレスに強い個体だけが生き残ってこなかったんだろう。朝ごはんはロキソニン

 

もふもふ仲間がfedibirdに引っ越していった。でもフォローしてもらった。嬉しい。なんやかんやでここの人とおしゃべりしたいと思っているのがわかるので嬉しい。

でも急に3人も引っ越して行っちゃったし新規さんも何人か居ついたので、よりLTLの入れ替わりを感じる。まあでもLTLにいなくなることはさみしいけど、HTLでもわちゃわちゃできるから良いね!

HTLでは顔見知りと、LTLでは一期一会を楽しむというのをトゥしてる人がいて、なるほど、こうしてHTLも活用していくのか。

話の流れからfedibirdにサブ垢を作る人も増えた。タグにLTLの人がいるのはなんか面白い。

 

しかし案外、元からfedibirdにアカある人多いのね。動いてない人もいるみたいだけど。運用か…私はfedibirdからLTLに遊びに行ってる感じだからあまり悩まなかったな。

そういえばドメイン購読とフォローを利用して、HTL+LTLを作り出している人もいた。か、賢い。これ初期装備でほしいな、misskeyにはあった気がする。

 

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もはやキャラクターに何の魅力も感じない精神状態。私はこの子たちの何が好きだったんだろうな。

かつて診断書を作るとき、お医者さんは何を思って躁鬱と判断したんだろうと思っていたけど、まあなんとなく納得しつつある気がする。もしかして数年ごとに定期的にこういう周期になるのかもしれないと思うと気持ちが悪い。そのたびに積み上げてきたものがリセットするんじゃ死んだほうがましだ。

 

やくもくの時点でTwitterを意識していやいや進めていた節があった。きっと次もそう。純粋にゲームが楽しくて遊ぶなんてことにはならないだろう。Twitterを抜け出しても感覚は簡単に抜けない。少なくとも騒がしいうちはもう別に遊ばなくてもいいかなと思う。

でも好きな実況者が遊ぶ予定らしい。配信が見れないのは困る。それに、その人は多分…永遠にカカリコ村につかないのではというぐらい進めるのがめちゃくちゃ遅かったので、急ぐ必要は無いし、心の拠り所にさせてもらおうかな。

 

Skebに影響が出てしまうので、とりあえず職場近くの図書館に行き、貸出券を作って、カラスの本を借りた。かわいくってニヤニヤしてしまう。リアル鳥にはまだ大興奮が出来るみたいで良かった。この可愛さをSkebに乗せたい。

 

全部自分の心の問題だけど、全部自分のせいにしていたらやってられない。

全部Twitterが悪い。Twitterが騒々しいのがいけない。キャラクターに嫌いな人間の印象がしみ込んで離れなくて苦しむことも多かった中、よく頑張った方だ。私の好きな気持ちも描きたい気持ちも、全部Twitterに削られて奪われた。うるさい。ドンにもみすきーにも出てくるな。騒がしいのはすべてTwitterでやってろ。こっちにくるな。

ここまで書いておいて、奪ったものを返せよって言葉があまり出てこないの、搾取され体質なんだろうな。返せよ全部。

 

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LTLでは寂しいこともあったけど、でも少しわかったこともある。

いなくなったことに気づかれない、代わりがいくらでもいるような環境よりは、こっちにいたい。本人のいないところで寂しいって言ったり、本人を直接引き止めたりする人たちを目の当たりにして気づいたけど、こんな風に寂しがってくれる人や覚えててくれるような人がいるのがわかったら、そりゃそこにいたいと思う。

寂しがってほしいとか覚えててほしいわけじゃないけど(覚えててくれてることは嬉しい)、ここにいる人は人間として他の人を見ている事実が嬉しいから。やっぱり言葉にしなきゃわからないというのは第三者から見てもそうだと思った。皆が口にしてくれたから気づけたことだと思う。

 

寂しさを分かち合うのも素敵なことだと言ってくれた人がいた。寂しいことを寂しいと言ってもいいのは嬉しい。

でもそれは嫉妬や地雷の渦巻くツイッターじゃ、ここよりも推奨されない言動な気もしている。だって、知らない人の名前を呼ばないで、なんて、私がずっと思ってきたことだから。なんにせよTwitterで見てるのは人じゃなくて、「コンテンツ」だ。

 

作品の見つけ方の順序が違うことに言及している人もいた。

ツイッターでは作品がコンテンツとして並べられていて、そこから人を知るけれど、ドンではまず人がいて、その人が何かを作っているのを知るという順序。前者が悪いわけじゃないけれど、後者は人そのものを先に知っている分、創作をしていなくてもその人と話したい気持ちが失せることはない。その代わり作品を好いてもらうには別の努力が必要ではあるけれど。

Twitterでは自分が絵や妄想を提供しているから、日常ツイにも反応してもらえていたんだとどうしてもそう思ってしまう。だってもし日常アカウントを別に作って貼ったら、メインアカの1割もフォローしてもらえたら良い方なのは簡単に想像つくだろ。別に悪い事じゃないとはいえ、「作品が見たいから仲良くしてくれてるだけだ」と感じてもしょうがないだろ。

 

そういう心苦しさを覚えた人たちが戻ってこなくなったのは、人をコンテンツとして見てきたユーザーたちの責任で、好きなもので繋がるから距離が近いくせに、ろくすっぽコミュニケーションをしてこなかったツケだと思う。そもそもここに来て「おはよう」「おやすみ」を言い合っているのに驚く人を見かけるくらい、Twitterでは「人間」が挨拶も忘れた「コンテンツ生産機」になっているわけで…。もちろん、私やここにいる人も、他の人をコンテンツとして見ることもあるけど、心苦しさを覚えるくらいには人として見ていたり見られていたい気持ちがあったんじゃないかな…。想像だけど。少なくとも私はそう。でもTwitterってそういう風習じゃなかったから。

 

でもまあ、出て行った人が何を言っても、Twitterを切った側だと思っていても、向こうからしたら泥船に最後までいられなかった脱落者なんだろう。そもそも情報収集のためだけの運営方針で仲良くなる気なんてさらさら無いのかもしれないし。

Twitterがこんな状況でもまだまだ代わりはいくらでもいるんだし、皆も私も気づかれてすらいないかもしれない。仮に気づかれたところで寂しいと思ってないんじゃないか。思ったとしても口に出してもいないんじゃないか。他人に対して寂しがっている様子が見られない、自分がいなくても楽しそうにしてる様子しか思い浮かばないということは、そりゃ自分も寂しがられることはないなと思うのは当然のことだと思う。

 

なんとなく遊びに来ただけなのにいろいろ気づいてしまう、Twitterとここは利用目的が違うから競合しないはずとはいえ、どうしても比べてしまうな…。