父のだいぶ前の誕生日祝いのプレゼントを受け取りに銀行に行ってきた。クッキーと羊羹…父はどちらも好きだろうけどクッキーじゃ機会も多いからつまらないと思って羊羹にした。
その時に紫陽花を見て、なんでいつもおいしそうに見えるのか謎だったけど…アイスに似てるんだと思う。アイス屋さんの丸いアイス。
気持ちは比較的平穏であることが多いけど、やはり早々にフラッシュバックの原因を突き止めて対策を立てなくては、恐怖で身動きが取れなくなってしまう。
それでもやっぱり油断すると理不尽な恨みを考えてしまいそうになるので、それを振り切るのを何度も何度も繰り返していた。他の人には他の人の人生があるので私が良くなって戻ってくるのを待っていられないのは当然だし、もう話すことも無いのだろうけど、私ばかりが苦しんでいると感じてしまって、本当にどうしようもない。
この自動思考を振り切るのにカービィのWiiとトリデラのサントラばかり聴いているから、ちまちま進めているWiiを遊んでいても新鮮味も懐かしさもない…ないけど心地良いから聴いているので心地よくはある。
一次創作の方でも、かつてうつ病だった人がいたなぁ、とふと思い出してDMをしてみた。
私が再び鳥を好きになる事が出来るだろうかと話すと、私の飲んでいる薬の成分か何かの名前が「ノルトリプチリン」だから大丈夫!と、クスッとすることを言ってくれた。ありがたいな…。
ちまちまと不安もパニックもさようならという本を読み進めている。
やたらと分厚いがそこには患者さんの例が色々載っているので、理解はしやすいかもしれない。
その中には娘を過剰に心配し過ぎている母親の例があった。亡くなったもう一人の娘がいて、もしかしたら助けられたかもしれないという自責の念由来の心配だった。
お医者さんは、同じような境遇の友人がいたとして「あなたに責任があるのよ」と言うのか?と尋ねると、決してそんなことは言わないと母親は答えた。そしてその架空の友人に送る心からの言葉を述べていた。
まあよくあるロールプレイだと思うけど…私にはまずそれが出来ないので、この母親はすごいと思った。私は相手が自分であるとわかってる以上、私は私にそういう言葉を送れない。思考が停止する。強い嫌悪感がある。カウンセリングでもなんかわーわー嫌がって逃げていたな…。何かが壊れてしまうような。
以前私に実際に送られたメールは…まるで私のような人からのメールだったけれど…私じゃないので心からの言葉を送る事が出来たし、それを通じて自分の事も少し癒せないか…と考えていた。まあそれがきっかけで読んだ本は役には立っているのかもしれないが…。
まずはそこからほぐさなくてはならないのかもしれないので、本を読みながら沸いてきた考えをいくつかメモしていた。
私はまず私自身に価値があると思っていない。私の絵にだけ価値がある。冗談のように褒めるのではなく心から褒めたり慰めたりするのは、とても怖い。気持ちが悪い。この事でカウンセリング中にわーわーしてたのを覚えている…。何を怖がっているかは正直わからない。ただ漠然とした恐怖がある。価値が無いくせに自分で自分をなんて恥ずかしいとも思っている。他人から絵以外に価値があると認められてきた積み重ねが無い以上、それは許されない。そこに踏み込まない限りは割と好き勝手できるのだけど…。
この本に書かれている内容によると、これに対して100%真実で、誤りを証明する内容の合理的思考をぶつけなくてはならない。んなもん思いつかんわ!
例えば人は無条件に価値があるとか、生きてていい、誰もが誰かから必要とされている…とか聞くけど…それはお前の価値観の問題としか思えない。そういう奴に限って理解ある人が周囲にいるんだろうな。きれいごとだ、100%真実で誤りを証明する内容ではない。
私だけでなくすべての人は無価値から始まり、他人から価値を与えられて生きていくものだと思っている。例えばそれが話していてなんとなく楽しいからとか、見ていて楽しいからでもいい。それを相手に伝える文化があればいいんだけどまあでもここは日本だからな…そんなことをいちいち言葉にしないからな……。
実際この合理的考えを導き出すのはなかなか難しいもののようだ。そりゃそうだ、そんな簡単だったらこんなに苦しんでないもの。
他人にケアされたいと願っているのもそれに繋がりがあると思う。何でもかんでも自己責任論が嫌いなのもあるけど…。ケアしてもらえるほどの価値を感じたい。それぐらい無料で見れる創作の対価として要求しても良いと思う。
それに私自身が愚痴のサンドバッグに何度もされてきたから…私も誰かに直接話を聞いてほしい。話を聞いたり、聞いてもらったり、お互い様ね!って関係に憧れがある…。
これは不安や憂鬱とは違うから認知の歪みとは違うのかな。
認知行動療法難しいな…。
これがあのメールの時点に絞ったとしてもまあなかなか…。
日記を見返すと私自身がタイミングが悪いこととして認識して、納得しようとしていた様子。あの後も人身事故だったり、うどん屋閉店が響いてくるけど、あの時点ではまだそれは起きていない・知らないことだから除外して考えねばならないだろう。
ただそれでもタイミングが悪い、だけでは耐え切れないほどの感情の洪水があった。
コアになる否定的な考えはこんな感じか。
出来事「問い合わせのメールに返信した際に、泥棒の被害を思い出して感情の洪水に合った。」
・私は世界中多くの人に絵を描く人間として尊重されていなかった。
・私には絵しか無いのに、泥棒に屈して逃げ続けた先で絵を捨てて楽しくしていた。
・私の作品で他人が助かって、私だけが助かっていないなんておかしい。ずるい。私を助けるべきだ。
・今さらどうしてそんなこというの。どうして元気な時に言ってくれなかったの。
・絵の公開を怖くて辞めたのに追ってくるなんて、私を追い込んで殺したいのだろう。
・若く良い子に対してこんな感情を抱く大人は最低だ。
感情は…
フラッシュバックによる哀しみ、怒り、恨み、惨め、苦しい、辛い、孤独感、絶望、後悔、劣等感、屈辱…
メールの子に対する罪悪感。
絵を辞めた後に、見つけにくいメアドから追われる恐怖…。
そして元々持っていた、周囲に転載ごときで長々と騒ぐんじゃないと思われているんじゃないかという惨めさ、恥ずかしさ。
馬鹿みたいに大きな透かしを入れている事への恥と苦痛。
転載はつきものなのに耐え切れなかった絵描きとしての不適格な資質の自覚と惨めさ。
確信度もあるけどそんなもんオール100%に決まっている。
いくつか反論はできる。居場所、つまり依存先を増やす事は良いことだし、辛い事からは逃げることは何も悪くない。そしてもうじきちゃんと向かい合うつもりだった。
それに結局大人も子どもの延長線上にある存在にすぎないし、私も人間なので完璧ではない。子どもからの被害だってたくさんあったから、怯えたり敵意を向けるのは普通の事。
まあそんなことわかっててもフラッシュバックには勝てねえんだよな。だからフラッシュバックなんだろうし…。
あなたの作品に助けられました、は、私にとっては究極の地雷ワードでも、一般的には名誉な言葉だけに、避けて通ることはできないかもしれない。ここでもまた私ばかりが我慢しているのか…。
これからは相手を傷つけてでも、その言葉だけは言わないでくださいと伝えていく。それだけは言わないでくれ。お前が助かったとか癒された元気になった気持ちが落ち着いた云々はクソほどどうでもいいんだよ。そんな崇高な目的で上げてねえんだよ。自分を犠牲にしてまで他人なんか助けたくねえんだよ。
そしてそれを伝えて罪悪感に苛まれないほど非情にもなりきれない…。
この本にはピストル強盗に襲われてPTSDに苦しむ人のエピソードもあった。いくつかは参考になりそうだった。
しかし強盗と違って絵は二度と盗まれないということは無く、上げれば必ず盗まれ、世界中のネット上に拡散したからには取り返しがつかないのが現実だ。絵をパクられないとは思っていなかったけど、想像以上すぎた…。
この本にあった通り、確かに絵泥棒は私が苦しんでいることなど何1つ知るわけもないし、それで苦しむことも無いだろう。私だけが苦しみ続けるという、あまりも惨い結果だけがある。でも絵は消して消えない、これからも…何年もの間、知らずに増殖した絵は、被害に遭い続ける。死にかけるような犯罪や災害とは1回1回のダメージは少なくても、継続するぶんだけ性質は違う…。私はそれを受け入れて諦める作業をしなくてはならない。どちらかといえばグリーフワークだよなぁ…。
この本を読み進めていけばまた何かヒントが手に入るだろうか…。