あらかじめ。あまり見ていて気持ちの良いものではありません。
自分の葛藤です。
自分を貫くのは難しいなと思います。
なんというか、かつての労働の後遺症というか…。
今でも自他の境界が曖昧な状態になったままなので、かなり人の影響を受けます。
この話はもう何度目だろう…日記にはあまり書いてないと思うのですが。
評価を受けている絵があるとする。
それは厚塗りだったり、雑貨屋のようなお洒落な味のある絵だったり、色相を重視した色遣いであったり、背景が描かれていたり、様々です。
共通点は1つ。「私が描いていないもの」。
すると、私はその評価を受けている絵の特徴を「正解」だと感じるんです。で、評価を受けてるものって流行りである場合も多く、そういった「正解」が次から次へと流れてきます。
ただそれはトレンドにしかすぎないのに、と頭でわかっていても、「正解だからそれをやらなくちゃいけない」気がして、それをしていない自分が間違っているようですごくつらい。
それとはまた別で。
評価を受けている人(私が正解だと思う人)が「これがいい」「これは良いものだ」「これは信じられる」と言うと、すると、それを私は「正解」だと感じるんです。
ただそれは個人の好みにしかすぎないのに、と頭でわかっていても、「正解だからそれをやらなくちゃいけない」気がして、それをしていない自分が間違っているようですごくつらい。
でも私自身はそういう理由で、自分の描いてるものを曲げるのには非常に抵抗があるんです。それらの作品は皆魅力的で、時折普段やらない厚塗りや水彩をやっては参考にするのですが、それをメインにするのは、違うんです。
私が流行りものが好きな人だったらな
みんなと好みや描くものが同じだったらな
私が自然とみんなが好きになるものを好きになって、それを描きたいと思う人だったらな
「自然と好きになる」
重要なポイントです。仕事ならともかく、趣味で無理やり描いてもね…。
しかし、間違っている、皆と違うと感じながら描くのはとても辛くて苦しい。
ただ面倒臭い事に、人と同じものを描きたくない欲求もあります。車輪の再発明というか…。でも絵って、みんな同じもの題材にして描いているものなんですけどね。それも、頭ではわかってるんです。
あの評価を受けている人(=正解の人)が描いているんだから、描かなくていいじゃん、同じものを描きたくない。とか、人のせいにして、描くのを辞めてしまうこともありますし、そうしているうちに考える事そのもの自体が出来なくなってきました。自分で自分を追い込んで、なんて馬鹿なんだろう。でも、どうしても、心が感じていることに恐怖してしまいます。
それに、人とネタが被ったり、技法や色が酷似してパクリって言われるのも怖い。
パクリ関連の騒動は、相互のフォロワーさんが被害者として第三者によって検証画像を作られていたり、ファンが突撃していたり、なんかもう…ただただ恐怖でした。
私自身も被害者として当事者になったことがあって、なんか、もう、ほんと、心の奥底から面倒くさい…。二度と巻き込まれたくない…。
日中どれだけ楽しく過ごしていても、Twitterでそれらを見てしまうと、一気に落ち込みます。
だから本当はTwitterを辞めるべきなんですけど、ここまで長年続けてきたものを放棄するのは本当に難しい。
それに、なんというか…なんだろう。絵の作者の窓口を置いておかないと、何されるか分かったもんじゃないなと思うこともあります。
Instagramの日本人作家の無断転載アカウントは、私はあれは一種のアジア人差別だと考えていますが、それはまた別の話なので別の時に…。
何かあった時に文句を言う人が生きてないと、何してもいいと思う人は増えるのではないかなと。
なんでこんなことになっちゃったのかなあ。
ただ私、楽しく絵を描きたいだけなのに。