にっき

ゲーム記や転載された絵の削除申請まとめ、療養中の記録。

振り返ってみて

数ヵ月ぶりにpixivを経由してゼルダのフォロワーさんと連絡を取り、色々な気持ちが沸き上がってくる。

ティアキンを遊んでみようかという気持ちに従って遊んでみる事にした。

フォロワーさんたちはティアキンを否定するほど嫌いらしい。私はブレワイのEDが嫌いなので、そういう点では私と感性の似ている部分のある人達だと思う。きっと私も嫌うようなことがあるだろう。そうなれば、友人たちとおそろいの面が出来る。

逆に好いたら好いたで、鬱で好きなものが無くなってしまった私には良いことではある。フォロワーさんたちとの溝は深まるかもしれないが、現状深まったところでもう以前のような繋がりは無いのだ。

 

けれどろくに遊んでもいないティアキンは、もう、私にとって呪いのようなものに成り果ててしまっている。

 

リア友のいない私にとってネットの関係は唯一のフレンドリーな関係だった。

私がこれから誰かと接するたびに、遊べず置いていかれた事を、それが再び起こるかもしれないことを、自分が治らない病の人であることを自覚していく。

これは大きな呪いだ。

今さら遊んだところで、私だけが置いていかれた事実が変わるわけじゃない。大きな壁が出来てしまった。その事実がどれだけ私を苦しめることか、壁の見えない他の人には想像もつかないだろう。

 

普段、ブロック等を用いて人を切ることがない。まるごと人間関係を削ぐことはそれはそれは大きな苦痛の伴う決断だった。

けれど、置いていかれる衝撃も、鬱を繰り返す不治の病の特性も考えると、全部切る以外に無かった。

遊ばないでって言ったって私が治るまで根気強く待ってくれる人なんているわけがない。私の絵を見ていたくせに薄情だと責めたところでキチガイ扱いされるだけだ。

 

私が持っていた、心安らかに日常をSNSで送りながら、ゲームもできる日々という願いはもう二度と叶わない。

ピリピリせずみんなと一緒にいたいという気持ちがどれだけ大きかったか、他の人は知りもしないで暮らしているだろう。

 

鬱が避けれなくても、ティアキンさえでていなければ。

私がちょっとお休みしますと言って、それで人まで切らずに済んだのに。

 

そんな状況下でブログにこもって1人闘病していたところを、ずっと見られているだけだと知ったら、そりゃあ怒りもする。私がずっと孤独に闘病していたのを知っていながら見ているだけだったなんて。まるで見世物のような気分だった。声をかけてくれていたらいつか追い付くから待っててねと思えたかもしれないのに、私は見世物でしかなかった…。

 

 

私の願いは、日が経つにつれだいぶ色を失ったと思う。ああ、そんなこともあったっけと思えるほどに、時間が経ってしまった。

それでも壁が消えるわけじゃない。

私がティアキンを遊んでももう何も変わらない。